Hurt - Johnny Cash

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こんにちは、無能です。
流石に連日パソコンのこと考え過ぎて睡眠時間短くなったのでビールでも飲みながらのほほんと音楽聞く日です。

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これまじでうまい。。。

Hurt

1950年代以降から活躍したフォークアーティストであるジョニー・キャッシュの再期頃に出たアルバムであるHurtを名を飾る楽曲です。

僕は何になってしまったんだ?
僕の最愛の友よ
僕の知る全ての人が
最後には離れていく
そして君には全てを与えることができる

最後の最後に生きる事の苦悩と愛が溢れています。
自分の終わりに何を考えるのか?それが友人であり自分ではない他の人間のことを思うこと、これが人間は決して"一人では生きていけない"ことを70年間近くの生涯を終えているジョニー・キャッシュの魂の詩でしょう。
紛れもない、生き証人として、アーティストとしてきっとこの世に残してくれた大事な遺産です。

壊れた考えでいっぱいだ
修復することができない
時間の汚れの下で
感情は消えていく
君は別人だ
僕はここにいる

衰える身体を思いながら悲鳴をあげていることを言語化し、戻ることの無い時間への後悔と変わっているのは"君"なのかこの当人なのかわからないほどに疲弊している崩壊の最中にいるということを感じます。
そんな崩れ行く建物の中でも、明らかに自分は存在していることは紛れもない事実として認識をするのです。

そして君には全てを与えることができる
僕の塵の帝国を
僕は君を失望させるだろう
君を苦しめるだろう
もしやり直せるなら
百万マイル離れた場所から
自分を保ちたい
なんとか方法を見つけたい

自分の過ちと戻せる時間はあるのでしょうか?
徐々に崩れ行く建物の中で徐々に自分という焦点が合わずに、自我を保つことは生きることへの苦悩なのでしょうか。
Ring of Fireや他の曲でもあんなにも輝きを放っていた同じ人間が書いた詩とは思えません。
まるで対比するような消えゆく炎であるようにも感じてしまうような1曲です。

時間、友、最後

実際まだ年齢が浅い自分にとっては最期というものは感じづらいですが、死というものは訪れます。
一番身近に身の回りの人間がそうなることが一般的、というよりも死を実感出来るのは自分ではなく完全に外的要因でのみでしか感じ取れません。

例えば、ボブディランはメジャーになる前に当時NYの病院に入院していた師とも言えるフォークアーティスト・ウディガスリーの元へよく訪れた、と見ます。
もしかすると、ウディガスリーからするとギターを片手に持つヤンチャな若者であるボブディランを見て「次の私の担い手になってくれるのかもしれない」と思えたのかもしれません。それは、年齢や世代を超えた友人であったのかもしれない。
孤独に自分の行ってきたことを引き継ぐものがいたとして、それは自分の生きてきたことが無駄にならなかったとさぞ嬉しかったかもしれません。

自分は最後に何を思うのでしょうか?
自分が死ぬと思ったときにはは自分のことを諦めて他の人間のことを思うのかもしれません。   人間の最後には利他主義と共にその生涯を終えるのでしょうか?

時間を大事に生きたいものですが、ついつい好きなことばかりになってしまう。。。
いや、ある意味それはそれで良いのか?どうなんだ!?
とか思いながら結局、人間はかんたんに変わらずただ好きなことに時間を費やす日々がまたはじまるという残念な側の方です。
いや、楽しく過ごしているに越したこたぁねえ!
それではまたお酒でも飲みますか。

ということで、またよろしくお願いします。